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(書評)
松浦武四郎は、松尾芭蕉、本居宣長とともに「三重の三巨人」と言われている。しかし、武四郎は芭蕉や宣長ほど全国的に有名ではない。著者は、三重県伊勢市の出身であり、三重県で少年〜青年時代を過ごした名映画監督小津安二郎についても「若き日の小津安二郎」という本を出しており、松浦武四郎についても深い関心を持ち続け、本年(2006年)秋に本書を上梓した。
松浦武四郎の生涯と業績については、「松浦武四郎記念館」で詳しく展示、解説されているが、社会的に評価が高い仕事は、幕末に北方地域(現在の北海道、南樺太、南千島)の詳細な調査と地図の作成、探査で出合ったことの綿密な記述であろう。武四郎は、上記の他にも、登山家、画家、蒐集家、著述家などとして、多方面にわたり才能を発揮している。
著者は、これまで断片的にしか紹介されてこなかった松浦武四郎と山とのかかわりに着目して本書を書き上げている。武四郎は1818年に紀州藩の飛び地であった現在の三重県松阪市小野江町の郷士の家に生まれた。著者は、武四郎が近くに高い山岳が見えないところで育ったにもかかわらず、何故、山に強く引かれ、日本全国の霊山、高山を熱心に登るようになったかについて、いくつかの可能性について述べている。まず、武四郎が少年の頃に、当時、全国に流布していた「日本名山図会」などの木版画を見て、名山への憧れの気持ちを持ったのではないか、また、武四郎の家が参宮街道に面していたことから、全国からの伊勢参りの旅人から未知の土地や、そこの名山の話を聞く機会があったのではないか、さらに、伊勢神宮のある伊勢に生まれたことから、宗教的な尊崇の念から長い歴史を持つ霊山に引かれたこともあったのではないかと推察している。
松浦武四郎は、近代登山史においても取り上げられており、山登り自体を目的に楽しむ近代アルピニズムに通じる人物として評価されている。武四郎は、数え年(以下同じ)で16歳の時に江戸へ一人旅に出たが、その途中で雪を戴いた秀麗な富士山を見て山への憧れをつのらせ、江戸からの帰途、中山道を通った時に、はじめて戸隠山に登って以来、生涯に49前後の山に登り、記録を残した。近年、深田久弥は「日本の百名山」を著し、この本は多くの人に読まれているが、この中に出てくる九州から北海道までの山岳のうち、武四郎は19の山に登っている。
紀伊半島の山には、18歳の時に那智山、高野山、68歳の時に大台ケ原山、国見山、朝熊山に登り、その後、2年間毎年大台ケ原山に登っている。そして、70歳の時に、富士山に52年ぶりに登って山岳行を終えている。
本書を読んで、松浦武四郎が九州から北海道、樺太、千島までくまなく踏破し、その土地の学者を訪ねたり、人々と交流するだけでなく、霊山、高山に登って記録を残した。蝦夷地探査という重大な目標を持って北海道に向かう途次においても、東北の山々に登りながら旅を続け、また、蝦夷地にあっても大雪山などに登るなど極めて熱心に登山を楽しんだことが分かる。このことは、様々なものを蒐集する趣味を持っていたことともあわせ、松浦武四郎の複線的で魅力的な人生を示している。
本書によって、読者は伊勢の国が生んだ松浦武四郎と山とのかかわりという今まであまり知られていなかった一面を十分に知ることができ、また、山登りに関心の深い方にとっては、それぞれの山についての歴史的側面からの知識を得ることができ、興味深いことであろう。
(2006.11.20/M.M.)